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「資本主義」を広辞苑で引いてみた

広辞苑によると・・・・・。
「封建制度に現れ、産業革命によって確立した生産様式、商品生産が支配的な生産形態となっており、あらゆる生産手段と生活資料とを資本として所有する資本家階級が、自己の労働力以外売るものを持たない労働者階級から労働力を商品として買い、それの価値とそれを使用して生産した商品の価値との差額(余剰価値)を利潤として手に入れる経済体制。」


この国は2つのグループによって構成される、生産手段を所有する資本家階級と生産手段を持たない労働者階級である。この国の経済体制は、資本家階級が生産手段(工場等)で原料と労働力(労働者階級より商品として購入する)により商品生産をする。そして販売された商品の価格と生産するのにかかった価格の差額を余剰価値として資本家が獲得する経済の仕組みである。

これはマルクス経済学に基づく資本主義の解釈である。
資本主義の代表をアダム・スミス(1723~1790)とし、マルクス主義の代表をカール・マルクス(1818~1833)とすると、約百年の時間がある。ましてイギリスの資本主義を批判して生まれたマルクス主義で資本主義を解釈することには問題がある。
ある考えが生まれたときのベースとなる時代背景、その考えが国を良くするために目指したものなどによって説明されるのことが正当である。

ちなみに、オックスフォード辞典でcapitalismを引くと。
”an economic and political system in which a country's trade and industry are controlled by private owners for profit, rather than by the state."
「そこでは、国家によってよりむしろ個人的所有者によって、富に関し国の商売や産業が運営される経済的かつ政治的な体制」
要約すると、「私有財産を前提とし、国民の自由な経済活動により運営される国家体制」となる。

つまり、民主主義的国家での原型的な経済体制のことである。






「一休」さんの名前の由来

有漏路から 無漏路に帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け

人生にはさまざまな苦労や逆境が待ち構えており、気の安まる間もなく襲ってまいります。
そして、人生の最後には必ず死が待っています。
人生を如何に生きても、死に帰し空となるのが、人の一生です。
そうであるなら、人生を重大事として送るのも一生、逆にお休みとして気楽に生きるのも一生です。
一休さんは、荒波の世間から一歩引いて、世間を渡ろうとして、「一休」と僧名を決められたと思います。


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実際の一休さんはなかなかの実務型の苦労人だったようですが。

意識しないことに、感謝しよう!

誰しも胃の悪い時は、胃の存在を意識する。
私は年のせいか、右ひざが痛くなり、3カ月近くも直らない。
今はプールで年配の女性たちに交じり、歩いてリハビリに努力している。
ひざが痛くない時、ひざのあることさえ気にはかけない。
痛い時は、直って普通になればどんなにいいかと願う。
身体のどこをとっても同じである。悪い時は意識し、
直って普通になれば、一時感謝するが、すぐに忘れ、意識の背後に隠れてしまう。
健康ばかりではない。
すべての事がそうである。
人間関係でも、仕事でも、家族関係でも、個人的趣味でもそうである。
自分を支えている重要な事柄に問題がある時、えらいこっちゃ大変だと
当惑し、問題がない時は、なんのこっちゃと意識しないのである。
なんのこっちゃの時には、とるに足りないショーもないことを、さも重要であるかのように意識するのである。
人間は、自分を支えている大事なことと、そうでないことを区別することが肝要である。
そして、意識に上らずとも、大事なことがうまくいっていたなら、
ありがたいなと思うことが大事なのではないか。
無意識だが自分を支えている、身体や人間(家族、仕事仲間、友人・・・)や自然のものたちを敢えて意識し、感謝しよう。
きっと今、まぎらわされているつまらぬことから、心が解放され自由になれる。・・・かも。

二宮尊徳の悟り

私という物は、長年生き、いろいろ所有し、いろいろな人の中で日々暮らしている。
いろいろなことを望み、かなられることも、かなえられぬことも様々ある。
望みがかなえられると有頂天になり、かなえられぬと不満に思ったり、苦しんだりする。
生きる上で、これらの気持ちは必要なのであろうか。


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二宮尊徳は「夜話」の中で次のように言っている。
「人は生るれば必ず死すべき物なり。死すべき物と云う事を、前に決定すれば活きて居るだけ日々利益なり。是れ予が悟りなり。」

日常の私が生きていることを、当たり前として考え始めるのではなく、
私は死すべき物であることを出発点として考え始めると、
生きていることすべてが利益すなわちプラスとして見えてくる。


また、報徳記では次のように言っている。
「本来人は生るる時は、一物も持参する者に非す。又死する時も持ち往く者に非ず。裸にて帰る者なり。しかるをわが物となすは、知らず、無を悟らざる人なり。」

確かに、生まれたときは何も持っていない、死ぬときは何も持ってはいけないと考えるとき、
今自分が持っている物は、自分の物というよりは、仮に自分が持っている物という気がしてくる。

だから、私が持っている日常はすべてありがたいこと(儲け)ということになるのである。


客観的と主観的

哲学の初歩では、客観的に物事を見なければならない。
主観的であってはいけない。などど言う。

客観的 objective とは、object 物とか対象から来ている。
対自的(個我から離れて、自分をも対象として)に、
自己をも含めた全体を、自己の偏見(個人的価値判断)を排除して、
公平な心の目(意識)で見ること。

主観的 subjective とは、subject 主体や自己から来ている。
自己対全体(世界)の構図の中で、自己の価値判断を前提として、
対象世界を見ること。

哲学は普遍妥当的(何時でも何処でも誰にでも当てはまる)な知見を希求する故に、
客観的を主観的の上に置いているところがある。

確かに、ギリシャ哲学には「翼の生えた言葉」という表現があり、また
競技場で競技する者、そこで商売する者、観客の三者で観客をよしとする。

しかし、哲学のメインテーマを「人間とは何か」、ソクラテス的に言えば
「汝自身を知れ」とすることも立派ではあるが、
なぜそのような問いが生じたのかを考えるとき、始源の欲求または問いとして、
「よく生きたい」または「よく生きるとは何か」が見出されるであろう。

カントのように、客観的価値認識(あるべき)から即実践的価値認識(なすべき)
はなかなか引き出せないし、無理に引き出すと、ある意味社会不適合者になりかねない。
キリスト教的な神の王国を前提、または希求として前提にすれば成立するとは言うが、
一般人には通用し難い。

してみれは、普遍妥当的とは言えないようだ。

行ったものは戻らねばならない。客観から主観へ。
光と闇が一体(陰陽)であるように、弁証法的に
主観と客観を考える。

そこで、客観から主観へドーンと戻る。
客観(色即是空)から主観(空即是色)へと
戻り、随所に主となって自分なりに行動する。

自己の知見が有限である限り、この方法しか
人間にはないように思はれる。

すべての人にその人の人生があり、その人生の主役は、
正にあなたなのですよ。

なーんてね。



プロフィール

丸山博久

Author:丸山博久
兵庫栄養調理製菓専門学校理事長です。日々のことから私が思ったこと、身近に感じたことや気になることを書いています

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